時計界の救世主

クォーツ危機を乗り越え、クロノマットを復活させた時計界の救世主

1978年、ブライトリングは存亡の危機を迎えていました。

創業から3代目のウィリー・ブライトリングは健康を害し、後継者はおらず、他のブランド同様にクォーツショックやオイルショックに端を発するスイス時計業界の不況に瀕死の状態に追い込まれていました。。。。。。。

 

そんなブライトリングの救世主となったのが4代目の経営者をなったアーネスト・シュナイダーでした。

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1921年生まれの彼は、電子工学の専門家であり、家業の時計メーカーであるシクラ社でクォーツ時計を製作していて、時計ビジネスにも精通していました。

自家用機を操縦するパイロットでもあり、会社の経営を引き継ぐことができる資産もありました。

ブライトリングを継承する打診を受けたシュナイダー氏は、

「パイロットとして自分の飛行機を操縦していた私は、当時、ライバル関係にあったブライトリングの機械式クロノグラフを数本持っていて、実は内心非常にリスペクトしていました。

その話を聞いた時から、ブライトリングという時計を自分が作ることへの情熱みたいなものが、心の中で日増しに高まっていくのを感じました。」

と振り返っています。

 

ブライトリングを引き継ぐにあたってウィリー・ブライトリングが問題と考えていたのは、既存の顧客へのアフターフォローについてでした。

しかし、ウィリー・ブライトリングに引き合わされたシュナイダー氏は、

「私は現在のブライトリングを引き継ぐのではありません。過去の伝統も含めたブライトリングの全てを引き継ぐのです。」

といって、自身が開発したわけでもなく販売したわけでもない、詳細を知り尽くしているわけでもない過去に販売した腕時計のアフターサービスもひっくるめて、1979年にブライトリングを継承しました。

ウィリー・ブライトリングは心から安心したことでしょう。

数か月後にウィリーは他界しました。

 

承継したシュナイダー氏には、新生ブライトリングを象徴するクロノグラフの開発が、大きな課題となりました。

イタリアから転機となるオファーがもたらされたのは1982年のことです。

イタリア空軍アクロバットチーム、フレッチェ・トリコローリのオフィシャル・クロノグラフの公募があったのです。

シュナイダー氏はイタリアに飛び、空軍のパイロットたちに話を聞き、彼らのニーズを徹底的にヒアリングしました。

その結果、10G以上にもなる重力に耐えられる屈強さ、視認性や操作性に加えて、非常に細かい部分まで拘り抜いたクロノグラフが出来上がりました。

製作されたプロトタイプは100以上に及びます。

それを改良に改良を重ねてクロノマットの完成へとこぎつけました。

最高のクロノグラフを作りたい」というシュナイダー氏の強い思いが込められたクロノマットは、市販されると、クォーツ全盛の時計史上で爆発的な人気を得ることになりました。

シュナイダー氏は

「私が守ったことは絶対にクオリティを落とさないことでした。

それが最終的に信頼につながったのだと思います。」

と語っています。

 

こうして圧倒的な顧客の支持を得たクロノマットは、機械式時計復活の中心的存在になりました。


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